西武一筋20年、栗山巧外野手(38)が通算2000安打を達成した。球団生え抜きでは初の快挙。残り1本で迎えた楽天戦の9回1死走者なしで、元同僚の牧田から、鋭い打球を左前へ運んだ。プロ3年目の04年に初出場初安打を記録してから2041試合目での達成。埼玉・所沢で牙を研ぎ続けた「ミスター・ライオンズ」が、その名前を球史に刻んだ。
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慣れ親しんだ顔と花束に、栗山は白い歯をこぼした。中村からの祝福に「ありがとう、サンペーも頑張ってくれ」。同期の20年分の重みが短いやりとりに込められた。9回の第4打席、牧田-炭谷の元西武バッテリーから決めた2000本目。持ち味の逆方向、左前に“らしく”運んだ。ヘルメットを右手で掲げ、声援に応えた。「ライオンズが、所沢が好きなんです」。野球に打ち込めるライオンズが好きだった。生え抜き初の快挙。FA移籍による戦力流出が続いた球団の歴史に終止符を打ち、金字塔を打ち立てた。
残り74本で迎えた今季開幕直後、両足の張りに見舞われた。登録抹消。初めての経験に、全身検査して調べたが原因不明だった。でも「焦ったらアカン」。はやる気持ちを押し殺す。コツコツ刻んだ歩みを思い出した。
神戸に生まれ、6歳からバットを握った。「もうアカン」「もう腕が上がらへん」と限界値に何度も挑んだ。小学5年からティー打撃が日課。午後6時、薄暗い神戸・小寺小学校に車のヘッドライトが照らされる。暖色のグラウンドが自らの限界に挑む「原点」だった。
中学はシニアに入ったが部活入部が必須の校則があり、あくまでも野球のために陸上部に入部。本気度とは裏腹に、2年夏に100メートル走11秒7。部内1位で「田中君というすごい速い子に勝ってしまったんです」。顧問は大会にエントリーし、会場で待ってるからなと言われても、野球優先で原点に向かった。すると中学3年夏、“田中君”が110メートルハードルで中学記録を塗り替え、全国大会で優勝。いつのまにか、日本一に駆け上がっていた。
フィールドは違っても、先を越された感覚が今も骨身に染みている。だから家で2男2女のパパは言う。「人間コツコツやったら、日本記録を出せるんや。悔しさを持った人間が上にいくんや。そういう人間になりなさい。パパはウサギやったんやぞ。パパは身をもって知ってんねん。人間踏ん張ったら、日本記録出せるって」。2041試合目での到達は、外野手では3番目に遅いスローペース。逆方向に活路を見いだし、初めての規定打席到達は7年目の08年、球宴初出場は15年目。いつも少しだけ遠回りだけど着実に前進する。1本1本コツコツと。栗山の歩みは、まさにカメの歩みだった。
次なる目標はあえて口にしない。まだ通過点。「これからが、まさに勝負が始まるとき。これからどれだけ打てるかが価値あること」。西武で生きる道を選び、誰もが認める「ミスター・ライオンズ」。それが栗山巧の生きざまであり、野球道である。【栗田成芳】
◆栗山巧(くりやま・たくみ)1983年(昭58)9月3日、兵庫県生まれ。育英から01年ドラフト4巡目で西武入団。04年9月24日近鉄戦でプロ初出場。07年からレギュラーに定着。08年はリーグ最多安打を放ち、チームの日本一に貢献。ベストナイン4度(08、10、11、20年)ゴールデングラブ賞1度(10年)。今季推定年俸1億7000万円。177センチ、85キロ。右投げ左打ち。
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太山寺中時代の同級生で、同じ陸上部だった田中博幸さん(38、公務員)は、「クリはすごく速かった。100メートル走で一緒に走っていたんですけど、クリはずっと野球優先でやっていて、私は陸上にすべてをかけてやっていた。でも、負けるんです」。中学2年の夏、記録会で直接対決。栗山11秒7に対し11秒8で敗れた。
8月の暑い日だった。直後に陸上部顧問に呼ばれた2人。突然、陸上に専念するよう説得が始まった。県大会上位、全国大会も見えてくる-。顧問は熱い口調で「陸上か野球か、どっちが全国行けるんや!?」。そう問われた栗山は、ひと言、「野球です」。
当時の光景を思い出し、田中さんは「クリとはそれまで何度も言い合ったことがあった。だからクリの野球に対する気持ちは十分、分かっていたんで」。栗山の熱意を知っていただけに、田中さんは説得に加勢することなくただ黙っていた。
その翌年の3年夏、田中さんは110メートルハードルで、当時の中学新記録を出し全国優勝。「クリは野球を貫いて、それが正解やった。僕も、なにくそと頑張りました。そう思うと、クリのおかげで出せた記録でした」。ブレない栗山の存在が、原動力となっていた。
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