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Wednesday, November 17, 2021

「ぶち壊したい」衝動を形にした山下洋輔…フリージャズは「生き方そのもの」 - 読売新聞

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 この連載の 第17回 でも触れたが、高柳昌行(ギター)、富樫雅彦(ドラムス)、佐藤允彦(ピアノ)といった奏者たちによって、1960年代末、日本にもフリージャズの波がもたらされることとなる。

 フリージャズとは、調性や和声、リズムなどに縛られない自由な即興演奏を軸にするスタイルで、オーネット・コールマン(サックス)、セシル・テイラー(ピアノ)らが推し進めた。日本でフリージャズが認知される上で大きかったのは66年のジョン・コルトレーンの来日公演だった。主流を歩んでいたはずの巨人がほぼフリーフォームの演奏を展開していたことに、日本のジャズ・ミュージシャンやファンが衝撃を受けたのだ。ジャズ評論家の小川隆夫は「60年代後半にはジャズ喫茶でもフリージャズはよくかかっており、若い層を中心に支持を広げていた」と証言する。

 前衛的なスタイルだけに賛否両論で、渡辺貞夫(サックス)は「米国留学時代(62~65年)、ブームになっていたフリージャズに触れたが、これまで自分が学び、信じてきたジャズが否定されたようで、最初は拒否反応を覚えました」と述懐する。その渡辺もチック・コリアらと作った70年のアルバム「ラウンド・トリップ」でフリージャズに接近している。「自分なりにフリーの方法論を消化したいという思いが勝ってきたから」と言うが、自らのベースとなったビバップから音楽の幅を貪欲に広げていった渡辺らしい言葉だ。

 日本におけるフリージャズの中心的存在となり旋風を巻き起こしたのがピアニストの山下洋輔だ。42年生まれで、中学の頃、兄の影響でジャズを聴くようになり、その兄のバンドに加わって腕を磨き、高校3年の時にはクラブでの演奏などプロとして活動を始めた。それと並行して、「今後の音楽活動のため、一通りの理論も学びたい」と、国立音楽大作曲科に進んだ。高柳が主宰する新世紀音楽研究所に所属し、60年代半ばに参加した富樫のバンドではフリー的な演奏を展開していた。しかし68年、肺浸潤に倒れ、一時は引退を決意するほどだった。幸いに、1年ほどで完治し、気心の知れた森山威男(ドラムス)、中村誠一(サックス)とトリオを編成し、再起を期した。山下は言う。

 「最初は以前やっていた、それぞれのソロを極限までやるというアプローチでした。ただ、こういうことをやっていては、当時のナベサダ(渡辺貞夫)ブーム、ヒノテル(日野皓正)ブームといったジャズの流れの中でダメだろうという感覚はありました。ジョン・ケージのような現代音楽を取り入れることも考え、ヒントにするために、現代美術展にも行きました。ゼロ次元とかハプニングとか、絵描きが絵を描かないでニワトリの首を絞めているなんてのを見ましてね。そうしたら、何でもいいんだなって気持ちになり、一切のルールを無視して、それぞれの好きなことを一緒にやろうよということになったんです」

 これが吉と出たのだ。以後、山下トリオはフリージャズ路線を突き進むことになる。

 「以前、セシル・テイラーを聴いて、フリージャズは知っていましたが、あれは近寄ってはいけない悪い音楽だと思っていました。決してフリーは好きじゃなかったが、演奏していてとても気持ち良かった。結果的に僕らには合っていたということでしょう。森山はもともと自由にたたくのが好きでしたし、中村はコルトレーンの日本公演を聴いて、彼の 変貌(へんぼう) を自分なりに消化していました。あんなデタラメやっていましたが、全員が音楽大学卒業で、音楽理論には精通していたから、自信を持って逸脱できたんだと思います」

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