来年1月17日で発生から27年となる阪神・淡路大震災の犠牲者らの名前を刻んだ「慰霊と復興のモニュメント」(神戸市中央区)に、新たに6人の銘板が加えられた。11日に式典があり、遺族らが出席した。
「名前はずっと残り続ける。銘板の前に立つと、一人一人がそこで生き続けているように感じるんです」。増田潤さん(71)=兵庫県芦屋市竹園町=はこの日、新たに加わった母の悦子さん(当時71)と姉の美紗子さん(当時47)の銘板を見つめていた。
震災直後、同県三木市に住んでいた増田さんが芦屋市業平町の実家に駆けつけると、2階建ての古い家屋は全壊していた。父はピアノの隙間で命を救われたが、母と姉は助からなかった。「できるだけ最後まで一緒にいたくて」。2人のいる遺体安置所に1週間ほど毎日通った。
働き者の母は、自宅裏のアパートに下宿する学生らに日々食事を作っていた。震災の前日、珍しく電話があった。「ひざが痛くて買い出しがしんどいねん」。母から「しんどい」という言葉を初めて聞いた。それが最後の会話になった。
姉は進学塾の講師だった。教え子の小学生が難関中学に合格するのが生きがいだった。姉の死後、教え子たちがお礼を言いに家に来たり、手紙を送ってくれたりしたという。
2人の銘板はすでに芦屋市内の公園にはあった。だが、数年前に芦屋市内に引っ越したのを機に公園を訪れ、銘板は地下に保管されていて見られないことを知った。
「誰でも名前を見て故人を思い出し、その前で感謝や近況の報告ができるようにしたい」。そう考え、いつでも見られる神戸のモニュメントに加えてもらうことにした。「2人の居場所ができた気がする。姉の教え子など知っている人が見てくれたらとてもうれしいです」
モニュメントは震災で直接亡くなった人以外も受け入れている。今回は震災後に体調を崩すなどして亡くなった3人と、復興に寄与した1人も加わった。
「やっと夫婦が一緒になれた」。父の田中秀市さん(当時89)=神戸市灘区=の名が加わったのを見て、三男の幸裕さん(74)は涙を浮かべた。
震災で亡くなった母の千賀子さん(当時78)の名はあったが、そのショックから体調を崩して約1年半後に亡くなった父のはなかった。「仲の良い夫婦だった。また一緒になることができて天国で喜んでいると思います」
刻まれた名前の数は5029人になった。(鈴木春香、森直由)
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