ラグビー全国大学選手権決勝 天理大55-28早大 ( 2021年1月11日 国立競技場 )
天理大の小松節夫監督が28年目の歓喜に浸った。同大OBでフランスでもプレー経験のある異色の57歳は36年前、母校の栄冠をスタンドから眺めていた。実績がなくても、小柄でも、体を張る選手を育て、36大会ぶり、関西勢2校目となる日本一をたぐり寄せた。
あの日見た日本一の景色をついに見ることができた。小松監督が国立を4度舞った。涙はない。「選手の笑顔を見られて幸せです」の言葉に、教え子への愛情がこもった。
現役時代はCTB。16年に亡くなった平尾誠二さんとは同じ63年生まれで、高校日本代表で一緒にプレーした仲だ。しかし、「ミスターラグビー」とは同大で同学年ではない。
天理高卒業後、2年間フランスへラグビー留学をした。強豪「ラシン・クラブ」でプレー。帰国後の入学のため、天才・平尾が4年時に全国3連覇を成し遂げた時は1年生で、スタンドから栄冠を眺めた。今回の優勝は、その84年度以来の関西勢のV。自身が4年時に決勝で敗れた早大にも雪辱した。
「同志社に次いで、関西で2校目の優勝校になりたい思いはずっとありました。伝統校は本当に強くて。たくさんの大学が優勝していないんですよね。そこに仲間入りするのは敷居が高いなと思いながらやってきました」
海外と同大での選手生活が指導者人生の礎になった。日新製鋼で現役を終え、93年に天理大コーチに就任。80年代まで全国常連だった強豪が、当時どん底にいた。2年間でAリーグからCリーグに転落。力があるのにぶつけ方を知らない選手がふびんに思えた。
「部室にあるテレビを見て、練習時間が来たらグラウンドに出て、パッと帰る。そんな子たちでも、ラグビーが面白いとなったら自然と変わるんですよ。ゲーム形式を取り入れたら、面白いと思ってくれたようです」
面白さは譲れぬ哲学。フランスの自主性重視は新鮮だった。同大は、故岡仁詩監督の「自分の考えでやれ。それで結果が出なかったらしゃーない」というスタンスが居心地よかった。日仏で学んだエッセンスを、腐りかけたメンバーに注いだ。
1年でBリーグへ復帰。「体を張る。走る。うまい下手はその次」という信念で、コツコツと強化。留学生を融合させた超高速の展開ラグビーは今、ファンを魅了する。
寮の責任者で、毎朝7時10分、選手との体操から1日が始まる。強豪になった今も、初心者を受け入れる。つい数年前、野球部から転部した選手がBチームでレギュラーになった。選手勧誘は「今も競合したら来てくれない」と苦戦続きで、勇んで来る選手は1メートル70台前半が多い。早大戦も小柄なメンバーが躍動した。寛容な指揮官の人柄もあって、チームは全国の小兵の希望になっている。
◆小松 節夫(こまつ・せつお)1963年(昭38)3月3日生まれ、奈良県天理市出身の57歳。天理高ではSO、CTBで活躍し、高校日本代表に選出。卒業後はフランスに留学し、パリのラシン・クラブのジュニアチームで2季プレーした。帰国後は同大に進学。社会人では日新製鋼でプレーした。1993年にコーチ、95年から監督就任。家族は妻と一男一女。
《練習はスパルタ?》オレたちの練習ってスパルタなの?準決勝・明大戦のテレビ中継で、「天理大は練習が厳しい」と紹介されたが、小松監督も松岡主将も「ウチは違うけどなあ」と苦笑い。平日は午後5時から2時間。伝統校にありがちな「恐怖のメニュー」などは存在しない。ただし、「一つ一つの集中力は高い。しかも明るく取り組む」と小松監督。関西リーグは4試合のみと実戦不足だったが、「日頃から実戦を意識することが大事だった。フィフィタや松永がよく指示をしてくれた」とチーム一丸で乗り越えた。
《黒ジャージーはNZ模倣ではない》天理大の黒のジャージーは、決してオールブラックス(ニュージーランド代表の愛称)のマネではない。1925年の創部間もない頃。2代目真柱(しんばしら=天理教の代表者)・中山正善が、上下とストッキングの色を一色で統一したユニホームを贈呈。天理高校には白、天理大には黒を渡したことが始まり。以後、高校、大学ともに一度も変えていない伝統あるデザインだ。
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